京都✴
風信子
倶楽部
評論《蒼穹の一滴》
杜増 明
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評論《蒼穹の一滴》
杜増 明
ドラマ「銀二貫」を拾い観た。再放送で途中の回を幾つか観たところで、書店に赴いた。原作を一気に読み切った。昨今出会えなかった読み心地に酔った。書き上手が為した読み易い文藝作品は幾つもあるが、読み進めるうちに雪の結晶が降り積もっていくように人への想いが重なり広がっていく作品にとんと出会わない。読む傍から時間の彼方へ流れさっていく感動なんぞさせられてたまるか…。
この高田郁の作品を求めに書店へ。「みをつくし料理帖」の一冊を読み始めたが、読み切らずに止めてしまった。シリーズものは登場人物の相関と歴史を知らぬと味わい難い。そこで目に止まったのが、「ふるさと銀河線」(双葉文庫)だった。時代小説作家高田郁初の現代小説のようだ。9つの短編集の形態だから、自ずと頁順に読み始めた。そして、第一編「お弁当ふたつ」の冒頭、板倉家の朝の風景で読む気が失せた。直ぐ放り出してしまった。
読書欲に適う作品に出会えない或る日、「ふるさと銀河線」を部屋の隅から拾い上げた。そして、拾い読みし始めた。第二編「車窓家族」。飛んで第四編の表題作「ふるさと銀河線」。題名に釣られて第五編「返信」へ。ここから第九編「幸福が遠すぎたら」へ一気に至る。そして、飛ばした第三編「ムシヤシナイ」を読む。これで表紙を閉じて好し、だったが、書き出しが嫌だった第一編を再び読み始めた。やはり、読みたくもない日常風景が語られる。既読した各編の余韻がなければ、再び閉じていただろう。退屈な日常は小説中盤、一転する。ラストカットは直ぐ見えたから驚かないが、紛れもない高田郁の描き出す人間世界が広がっていた。
高田郁の世界で〝人〟に出会う。〝人〟は出会った人に想いを掛ける。また、想いを掛けられる。それらの想いを支えに〝人〟は意思決定し生き始める。高田郁は信じている。いつ如何なる時にも〝人〟の眼差しから優しい風は吹くのだと。辛苦と悲哀に見舞われた迷える〝人〟に優しい眼差しを注いでいたい。辛酸を自己が舐めれば、優しい想いを傾けてくれる〝人〟の眼があることを疑わない。作家の精神の在処は定かだ。人情咄だが、情に溺れず、知を働かせ、意を貫き自己実現していく〝人〟の姿を描いて美しい。
美しさだけが〝人〟のこゝろを解き放つ。自由なこゝろだけが真実を見つめる勇気を持つ。芸術である文藝が果たす役割は明らかだが、“美”の光彩を照射する作品の少ないことよ。高田郁が語り出す《詩と真実》をこゝろの糧にされる人は普く居られよう。だが、忘れてはいけない、高田郁が〝人〟の困難と喪失から目を背けていないことを。ドラマ「銀二貫」で真帆の火傷は首にある。小説では顔右半面が引き攣れている。このドラマでの変更が芸術への大罪であることを忘れまい。
高田郁は、漫画原作として書いた旧作「軌道春秋」から抜粋して小説化したものが「ふるさと銀河線」だと、明かしている。鉄道のある風景の中に織りなされた〝生きる人間〟の姿は読者の隣に滑り込んでくる。そして、読者は物語の中に入って時を共有する。生きることは感じること。感じることが生きる実感となる。登場人物に寄り添い列車に揺られる。列車を見る。過去から未来へ、列車のように〝人〟の想いも走っていく。鉄道は永遠に〝人〟の想念を刺戟して止まない。高田郁には、新たな「軌道春秋」の創作を望みたい。 [文・とましあきら]
ふるさと銀河線で出会う
2014年 8月 2日