京都✴
風信子
倶楽部
文藝
三毬廣汰
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三毬廣汰
かつてスピルバーグが云った。物語ったとき…〈それから〉と問う児は悪
い子になる。好い子は《どうして》と問う…と。〈それから〉は欲望のこゝ
ろの表れで、《どうして》は探究するこゝろから出てくる。
映画も同じだ。ストーリーを追いかけて観る人は映画を楽しめない。「八
甲田山」(森谷司郎監督/1977)が評判になって、ぼくの周囲にも映画館へ
行ったという人が大勢いた。ティータイムには恰好の茶飲み話になった。そ
こから聞こえてくる観点は悲劇のドラマに集中していた。「八甲田山」を映
画として成立させていたものは、事実を再現した劇性ではなく、木村大作の
撮影による映像と芥川也寸志が作曲した音楽の存在だった。台詞がひとつも
聞こえず静止画の連続でも観衆は感動しただろう。
音楽も同じだ。歌を聴くとき、リズム、サウンド、メロディを愉しむだろ
う。気に入れば何度も聴き、歌ってもみるかもしれない。詞を旋律に乗せて
口遊むとき、歌手の声と歌い方の印象を通して、作曲者の想いが身内に流れ
込んでくる。時として、歌い手への共感と愛に傾くことも珍しくない。楽曲
製作の凡てを独りで賄っている場合もあるが、多くは分業の集合で出来てい
る。作詞、作曲、編曲、演奏、歌唱など幾人もの人間の共同作業の産物だ。
映画のそれも変らない。最後に鑑賞者が加わって作品は完成する。
映画館に行かない。コンサートに行かない。こう云う人がいる。仕事を第
一にするのは無論だが、生活上すべきことは絶え間なく目の前に現れる。映
画館やコンサートホールへ行く間がない。また用もない。テレビを観るし、
ディスクも観たり聞いたりする。本だって読む。決して芸術鑑賞をしていな
いことはない。ここに落とし穴がある。
突然だが、人生とは何だろう。ふと考えることがある。色々な見方言い方
ができる。着て、食べて、住むこと位、単純に云うとどうか。人と出会い、
愛し、別れること。無茶で乱暴だが、一理とすれば、人と出会うために生ま
れたと云えまいか。人と出会わなければ何も始まらないのが人生だとすれ
ば、芸術も人と出会うためにある。
あまり映画館へ行かない友人が訪ねてきた。それを詰るといつも鼻白むか
ら、最近観た映画の話を掻い摘んでする。気後れした表情で聞いているので
早々に切り上げる。これからも映画館へ行かないだろう。この人は映画の中
で人に出会っていないのだ。ということは、音楽のなか、本のなかでは人に
出会えているのだろうか。自己の衣食住の支えに守られた結界の中で生きて
いている人は存外多い。それが悪いのではない。ただ、これが世界だと観る
のは井の中の蛙の誹りを間逃れない。世界を人間と置き換えても言い。ぼく
はもっと色々な人間がいるのを知れと云っているのではない。外向きでなし
内へ向ける目が曇ると言いたい。出会い知るのは他人ではない。自己の発見
こそ生きる意味と感じている。
日々、芸術の中で人に出会っている。先日もそして今日も出会った。
高畑充希のCD「PLAY LIST」で、16歳と22歳の彼女の歌を聴く。少女
とその面影を残しながらも成人した女性の歌声違う。同一人でありながら人
は変化する。16歳の声はハスキーさが濃い。おそらく舞台で歌い続けて声
帯が荒れていたのだ。ザラツキ感を超えて伸びる歌声は少年時にしか出ない
輝きを放って清々しい。現在の歌声は少年時の魅力を個性に残しながら、艶
を増して美しく表現の幅も広がっている。
スタジオジブリの「思い出のマーニー」(米林宏昌監督)を観た。宮崎駿
が引退と同位の表明をした後の作品とあって、複雑な思いでスクリーンと向
き合った。開巻と同時に蟠りは吹き飛んだ。絵だ。紛れもないジブリの絵が
あった。美しい。ディズニーが決して真似の出来ない絵が美しい。そして、
自分が嫌いな杏奈に会った。マーニーに会った。頼子さんに会った。久子さ
んに会った。十一に会った。…会った。
音楽も映画も解るために観たり聴いたりするんじゃない。好きになるため
に人と出会うんじゃない。況してや、出会った人を嫌うために今を生きてい
るんじゃない。今、出会っていることに意味がある。今、生きていることに
価値がある。音楽や映像の中の少女たちが大人の男のお前と何が繋がるのか
などと宣うあなたは、まだ誰にも出会っていませんね。勿体ない、折角人間
に生まれてきたのに。 [随筆 : みかさひろた]
人に出会わない映画
2014年 7月 25日 金曜日